昭和45年10月16日 朝のご理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
気を緩めるとすぐに後に戻ると。どうでも十里の坂なら十里の坂を登り切らせて頂かねばなりません。為には一つ気を緩めんで一気に登り切ってしまうと言うおかげを頂きたい。でないと、又、一番最初からやり直し。と言う事はねそれはま、いいですけれども何十年たっておかげが堂々回りですよ。そういう信者の多い事に私は驚く程です。もう堂々回りの信心ばっかりしとりますからと、挨拶の様にいう人があります。
ですからおかげがひとっつも進展しない訳。何時も何とはなしに受けておるおかげは。それでもやっぱり堂々回り、同じ様な苦労で同じ様に苦労しておる、おかげの程度も差程垢抜けしたおかげにも成って来ない。それはどう云う事かと言うと、いわゆるその登り切る所を、一気に登らずに元に戻る様な事になるから、それはどう云う事からかと言うと、途中で気を緩めると云う事からなのです。気を緩めると直ぐに後に戻るとこう仰る。気を緩めたら駄目です。
どう言う訳でもうそこに頂上が見えておるのに気を緩めるかというと、まあ十里の坂を九里半登ってもと、こう仰る本当にもう九里半登ったらもう頂上がそこに見えておるだろうと思うですけれどもです、実際は信心の上ではどう言う事かと言うと、やっぱり一番きつい時なのです。例えばこの耳納山でも九合目位登ったらもうきついです。頂上はそこに見えておるけれども、一番きつい時なのです、それが頂上が見えればね、そこから弾みも付くですが、実際は信心が何処が頂上やら分らんのですからね。
これ程信心しておるけれども何時おかげを頂くやらと、そこんにきが中々分からんのです。実際、信心の頂上というのは。だからここで思わなきゃならん事はですね、もういよいよきつい時にこそ、もうおかげが側だと先ず思うていいですね。言うなら苦に苦が重なると言う程しの時にはですね、又言葉を変えて言うならば、お互いが難儀をしておる、苦労をしておるというのは、言うなら、廻りのせいなのですから、もうこちらがへとへとになっておる時には。
相手の廻りももうへとへとになっておる時なのだと云う事なのです、ですからもう、実際はあでや疎かには出来ん時です。もうもてません、もう辛抱が出来ません、と云う時程、もう頂上はもう直ぐそこにあるのだと、私は思うて間違いの無いと思う。信心の上では見えません、普通の山に登るならば、八合、九合となりゃ、そこに見えて来るけれども、信心は見えません。ただいよいよきつさがきつさになって来るだけ、いよいよ苦に苦が重なって来る様な時、そこでやり損なう。とても私どんじゃおかげ頂ききらんと云った様な心が起こって来る。
ですから言うならばそれこそ廻りとの対決なんですね、苦しいと云う事は。ですからね、廻りもヘトヘトになっておる時だからです、私共が本気で元気を出しさえすりゃ、これはもう絶対のものなんですけれども、正と邪と云う物ね。いわゆるよこしまな事、正しい事です、正と邪と云う物はもう絶対、正が勝つ事になっとるです、同じ力であっても。云うなら廻りも十の力、私共一生懸命も、例えば信心の力も十の力、十の力と十の力がここに相寄ったらですね。
もうこれを緩めるから、相手にやられるだけの事であってね、緩めさえしなかったら、正は邪に必ず勝つ、これは、一つの法則だと私は思うです。正しいと云う事。ですから私共そこに、一つ元気を出してです。その苦しい事に取り組ませて頂いて、今こそ廻りのヘトヘトの時だ、ここで負けてはならん、と張り切らなければならないところをです、とても私どんじゃ、おかげは頂ききらんと云う様な風で、そこを辛抱し抜き切らん、惜しい事、頂上は見えない。
信心の上での頂上は見えないけれども、いよいよきつい時こそ、もう頂上は直ぐそこだと思わせて頂いて、そこん所のおかげを頂いていかなければならん。そこでそう云う時にです、そんなら、しいら元気じゃいけません、から元気ではきつい、きついけれども心の底から何とはなしに元気な心が湧いて来るという、苦しい、苦しいけれども有り難いというものなんです。
どこから湧いて来るか分からんけれども、そういう元気な心、云うなら有り難い心が湧いて来る、そういう調子をね、取り損わん様にせにゃいけません。いわゆるコンディションと申します。心のコンディション、信心はね我力で出来るもんじゃありません、朝参りでもね、ひと月かふた月かなら、我力で出来るかもしれませんけれども、十年、二十年も続いておるという方達は、やっぱりお参りしなければおられない。だからお参りが出来ておるのです。
その中には矢張りきつい事もあろうけれどもです、いわゆる心の言わば調子というものを整え整え、元気な心でお参りをし続けて行く訳です。やっぱり神様のおかげを頂かなければ出来ません、神様のおかげを頂くとようも、ああゆう坂を乗り越えたものだと思う程しであります。自分の力じゃ出来ません、神様のおかげを頂かなきゃ。
その神様のおかげを頂くという心は元気な心、又は有り難いという心、その元気な心もしいら元気じゃない、何処からか湧いて来る心。きついけれども何処からか、湧いて来る清水の様な物なんです。有り難い元気な心が湧いて来る、有り難いという心が何処からか、湧いて来ると云う様なおかげ。
そこでですね、私共は矢張り九里半登って、もうすぐ頂上だという時に、今申します様にきつかったり、とても私共ではおかげを受けられんのじゃなかろうかと、やれやれが出たり、心が緩んだり致しますものですから、そういう時にね、私共はどういう生き方にならせて頂いたら、有り難いものに触れたり元気な心が頂けたりするだろうかと云う事なんです。私はもう朝の時間を一番大事に致します、一番大事にするというなら。いわゆる自分の心のコンディションをね、御神前に出る迄に、整えておく訳なんです。
目が覚めたら顔を洗う、もうその辺の所を非常に大事に致します。もう本当にもう微に入り細に渡って自分では心掛けております。控えに出て参りましたらあそこへ座った途端に何か知らんけれども深い何と云うか有り難いというか、勿体ないというかそういう心でじっと四時の時間を待ちます。それに今日はですね夕べある事でちょっと眠れない事があって眠れなかった丁度三時半頃眠ってしまった。いうなら目覚めが悪かった。
そういうせいもあったでしょうか、何か知らんけれども、調子が出ないんですよね、心が焦って来るけれどもどうもいかん。こんな事では御神前には出られないなぁと思うのです。そしたら昨日ある方が私の控えで使わせて頂く椅子をお供えしておられます。これは日本製ではありません、外国製であのての椅子は外国製しかありません。こう座りますとこうゆらゆらする様な体が動く様になっています。
私も早うからあれがいいなと、あんなのが欲しいなと思うておった。そしたら昨日それがお供え頂きました。それで控えに置いてある訳なんです。それで今日はいっちょ、椅子に腰掛けようと思うてから、何時も座っておるのを椅子に掛けさせて頂いた。そしたら中々調子がいい。そこからね、もう不思議にその有り難いものが湧いて来るのです。勿体ない事だなぁと、椅子一脚でもやっぱ二万円近くするのじゃないでしょうか。
勿体ない話だと。本当に神様が少しでも、いうならば喜ばせ様としておかげを下さる。それがその大体、今日お供えされる筈だったらしい。所が私がああゆう椅子が欲しい欲しいとこう云うておったもんですから、それをちょっと思い出された。今日はこちらから便があってから、その車に持って帰ってもらいたいと、こう思うておったけれども、先生が欲しい欲しいと言いよんなさったのを思い出したら、もう矢も盾もたまらんごとして遠方の所を子供さんにその事をいうたら、そんなら僕が小型のトラックで乗せて行ってあげましょうと言う。そんならというて、昨日夕方持って見えられた。
私は信心はその辺が大事だと思うですね、もう一時でも神様が喜んで下さるならば、もうよかよか明日でんなんてん言うよりか。もう一時でも早う喜んでもらいたいと言う。そういう私は積極的な、私は生き方がおかげになると思うですね。まあ余談ですけれども、昨日はたまたま富永さんが御参拝になっておられました。丁度帰ろうとしておられる所にその方が見えましたもんですから、富永さんがこう言われるんです「ああしもたぁ」と言われるんですね「何ですか」と言うたら「もうそれが先生、私はデパートに行く度にこの椅子を見るとね、これを親先生にお供えしたい。これをお供えしたらきっと親先生はお喜びなるじゃろうと思いよった」と言う。
そしたらしもうた、遅なしたと言うわけなんですよ。だから思うとるだけじゃいかんです。遅なす先手を取られる。私はデパートに行く度にこの椅子を見せて頂くと、これをお供えさして頂いたら親先生は喜ばれるじゃろうと思いよりましたと。その方にこんなのが欲しいと言うた事はありません。と言うてその方に私が欲しいと言うた訳じゃないです。けどもこんな椅子があるといい。
私は高橋さんとそれを話しよったんです。私はデパートに行く度に、高橋さんにこの椅子はええなと、それに掛けてみるんです。そしたらたいがい買うてくれるだろうと思うて、もう一、二年間私はそれに願いをかけとった。けども私は大体の主義がそげん自分で求めて買うと云う事はしませんもんですからね、親先生があれが欲しかと言いよるから、今度の企画で取り上げてあの椅子いっちょ買おか、二千円三千円のもんじゃないですからねやっぱ、云うてくれるだろうかと思い寄ったら、そげなもんどんと云う様な顔をして、いっちょん買うてやろうとせん、その話をしよったんです。
そしたらその方が聞き込んで早速。そんなら今日はいうならばね、今日はこちらからそちらに便があるから、その車にことづけましょう云う事だったけれども、あげん欲しい欲しいと言いいよんなさったから、もう思うたら矢も盾もたまらん、息子に云うてから車出してもらって持って来たとこういう。そう云う例えばその方の思いがね、その椅子の中にあったんでしょうね、掛けた途端に有り難うなって来たんです。
もったいない事だなぁとゆらゆらしながら、そしてずっと見回して頂いたらですよ、もうここにある机も絨毯もそこに置いてある置物も、そこに置いてある英国製のスコッチウィスキーがね、それこそ一万円位する、一本が。それも先日持って来て下さって、そこにおいたままになっとった。それを見せて頂いたら本当に、ま何ともったいないもうとにかく、私の周囲はもったいないもので一杯になってしもうた。有り難い心で。そんな思いで御神前に出さして頂いた。
そこで私共の心の中にね、いわゆる心の調子が乱れておる時、有り難いと思うて、これは願う事でも、詫びる事でもそうですよ。いくら詫びても白々しいお詫びしかできない。願え願えと仰るから願うてみても、一つも実感的に願いになって来ない。それは心のコンディションが悪い時なんです。そこで先ず願う事よりも詫びる事よりも御礼を言う事よりも、神様に通じない様な詫びやら、礼やら言うたってあなた同じ事。
詫びれば神様が一々合点して下さる様な思いがする。願うたら神様が引き受けたと言うて下さる様な感じがする所まで、願わなければいけんのだけれども、心の調子が乱れておる時には、口には出ておっても、心からそういう実感が湧いて来ない。そこでコンディションが良くなからなければならない事になって来るから。そのならコンディションがです。心の調子がどの様な状態の時になって来るか。お互いが九里半も登ってやれやれきついとか、とても私どんじゃ出来まいと。
心に緩みが出来た時です、私共はいわゆる心のコンディションをいよいよ整えなければならない時だと云う事なのです。 そこでなら心の調子を整えると云う事はどの様な事かと言うとです。例えば十年前の事でもよい、信心始の頃でもよい。あの様な素晴らしいおかげを受けた事があったと。例えばです有り難いおかげの事を思うたみるんです。こげな不平どん不足どん言う段じゃない、此の様なおかげを受けておる、さあそれが有り難いものになって来ると自分の周囲が全部、有り難いものになって来るんです。
どげん考えたっちゃ勿体ない、どげん考えても神様のお働きと言わねばおられない、と言うのが実感に感じられて来る、有り難いものに。そこにはきつい又は眠たい、やれやれと緩む心が起こって来るけれども、その心がいわゆる有り難い事で、ジャーとこう引き締まって来る。私はこの九里半登ってやれやれと言う様な心が起こる時にです。それは心の調子の狂うておる時なのですから、まず自分の心を又、ご理解の中にあります様に、心は信心の定規じゃによってと仰せられるが、心は信心のと言うよりも、心は信心をさせて頂く者の心なのだ、と言う風に頂いたら分かり易いと思います。
心は信心させて頂く者の定規なのだ、だから有り難くもなから無ければ勿体なくもない、心から湧いて来る元気な心も無い、ただきつかばっかり、眠いばっかりと例えば云う様な時にはです。心は神信心の定規じゃによってと思うて、これはこの定規を押し当ててみてです、間違っておる、乱れておる事を分からしてもろうて、今日私が申します様な所をです。そこに心の調子を整えさせて頂く何かと工夫しなければいけない。
それは工夫はいろいろありましょうけれども、今日私の体験から言うとです。結局有り難い事を思うて見る事だと思う。間違いの無い、神様の働きを頂いておる事実をね、直視するのだ。それをそこからね、有り難いものが広がって来る、心の中に。なるほど今はきつか、けれどもね過去に於いて頂いておる例えば、おかげと云う事を思うたらです、信心始の事を思うたらです、元気な心も又湧いて来る、又有り難い心も湧いて来る、心の調子が取り戻せる。
その心の調子が出た所でです、詫びるもよかろう、御礼もよかろう、願う事も又有り難い事になって来る訳です。そこでですね、私が一つ今日は私が初めから有り難かったのではないのですから、結局私は嘘にでもよいから一つ神様有り難う御座います。有り難う御座いますを、私は唱えて見る事だと思う。そして自分の信心の歩いて来た信心の道というものを振り返ってみて、空々しいものでよいから、有り難う御座いますを唱えながら、それを思わせて頂いておる。そこからです、私は有り難いものが出て来る様に思う。そこからおかげが受けられる。
十里の坂を九里半登ってやれやれが出たり、心が緩んだのでは、こんなに勿体ないお話はない。こんなに馬鹿らしい話はない。それで又元のもくあみの所へ返って同んなじ所を繰り返し繰り返し何十年間、それでも矢張りおかげは何とはなしに頂くから、止められないと言う、そして信心が堂々廻りばっかりしましてからと云うて、それが挨拶のごとなってしまう。信心は堂々廻りじゃいけん、ひと山ひと山越えて行かなければいけん。そこに信心の言うなら足場というか、信心の成長がなされておかげの言わば成長も勿論付いて来る訳なんですね。
今日は特に気をゆるめると直(じき)に後に戻るぞ、と仰せられてる所。私共がどうでもおかげを受けなければならん、そういう、どうでもと言う勢いで一生懸命、神様に打ち向かう。そのどうでもが何時の間にかです、ゆるんで来る。とても、自分はおかげ頂ききらんとじゃなかろうかと、とてもこげな事は出来んと思う様な事が出来て来る、そういう時に程、一ついよいよ、頂上に間近いと悟らせてもうろうて、そこで一つ、ひと工夫しなければならない。
いわゆる心のコンディションを整えて又、そこから、一気に頂上目指させて頂こうとする、矢張り信心の工夫と云うものがいるんだと云う様な事を今日は申しましたですね、これは一日の内にでも、やっぱり心が緩みます。只今申します様に、私の信心の調子というのはやっぱり朝が一番だと、又一番朝を大事にする。いわゆるそのコンディションを作る事の為に、一生懸命努力をする、そして素晴らしいコンディションのまま御神前に進ませてもらう。
そこに私の祈りがですね、神様との交流になり、おかげを頂くなという安心が生まれて来る。それでもそれが段々昼になり夕方になって参りますとね、緩みますけれども、その都度都度に矢張り又です、じぃんと来る様なおかげを頂かせてもろうて、一日を終わらせて頂く訳なんです。一日の内にでも、矢張りそういう風に緩む事があります。又一つおかげを頂かねばならんと言う中にもそれがあります。日々の中にもそれがありますからそこん所を一つ本気で心掛けさせてもろうて。
同時に私は今日思います事は、私共の心がどういう時に緩むかというとですね、もうきついという時もそうです。もう半道でもう一里で頂上だるうと思われる様な時にやっぱりいよいよきつい、いよいよ苦しい、そういう時に緩みがちだと申しましたが、私共の心にね、慢心が起こった時。慢心と云う事は色々に範囲が広いですね、言わばうぬぼれが起こった時、又は自分が求めて楽をしたいとした時うぬぼれが出来た時、おれがといわゆるそのまあ、特にね自分が神様にね、自分が神様に縋れると言った様なね、うぬぼれが一番心がゆるみます。
自分が求めて楽をしようとする時、うぬぼれが出来た時、いわゆる特に自分は神様に好かれ取ると言った様なね、自惚れが一番心が緩みます。自分は大抵悪か事したっちゃ、神様が大目に見なさる。自分は神様に好かれとるから、と言う様な慢心ですね、横着です。 そういう例えば心が緩みます。隙というか、それはそういう慢心が出たり、横着な心が出たり、又は自分が求めて楽をしたいと云った様な時に心が緩む時ですから、心掛けとかにゃいけませんですね。
楽はしてはならんというのじゃない。神様はさせて下さるのですから。させて頂く所にです、安心がある、同時に勿体ないなという喜びがある、そういうおかげを頂かせて頂かねばならん。私今日は心が緩む間近かと言う、おかげが間近という時に、心が緩むそういう時の、いうなら心掛けとでも申しましょうか、そういう時のの心の持ち方、いわゆるコンディションの作り方と言った様な事をもうしましたですね。
どうぞ。